花のように生きる

冴えない人が急に変身することがよくある。

ドラマでもよくあることだが、ドラマの世界に限らず身近でも起こりうることだ。

そういった変化を、時に「化ける」と言うが、この原理に似ているものがある。

 

「花」という字は、草が化けると書く。

草は、雑草も含めれば様々な場所に生える。

踏まれたり、風に吹かれたりしても、草は意外と丈夫に立ち続けている。

それはまるで人間のようだと、私はよく思うのだ。

そんなたくましい草が化けると、色とりどりで様々な種類の花へと変身する。

 

この草から花への変化を人間に当てはめてみると、実に面白いほどに合致する部分が多いことが分かる。

 

人は人生を生きる中で、たくさんの試練にぶち当たる。

それはまるで、草が風雨にさらされたり、強い日光を浴びたり、外敵に攻撃を受けたりすることによく似ている。

そして人は、多くの試練を乗り越え、多くの支援を受けることでいつか成功を収めたり、人として大きく成長して人間性を高めたり出来るのだ。

それがまさに、植物でいう花が開くことと同じことなのである。

 

私自身は、まだ花を開いたと自分で思っていない。

何をもって「花が開いた」と思うかは人それぞれだが、とにかく今は自分が開花したとは思っていない。

 

花は旬を過ぎると枯れてしまう。

どんなに水や栄養を与えても、一生咲き続けることはできない儚さがある。

それは人間も同じで、いずれ人生を終えるときがくる。

 

自分は今花を咲かせているのか、それともまだ草のままなのか。

自分を振り返ったとき、あなたはどちらだと答えるだろうか。

 

私は今、ようやく自分が「やりたい」と思えることを見つけることができた。

それはやっと、草が伸びようと思い始めた段階に過ぎないかもしれない。

これからまた、多くの試練を経験しながら、ただ一方で多くの支援も受けることで、少しずつ成長していく。

しかし、最後に花を開かせる力は自分次第だ。

どんなに多くの支援を受けても、多くの試練を乗り越えても、最後のチャンスを自分でつかめなければ開花はしない。

それが生きることの厳しさだと、最近は毎日感じている。

ただ「やりたい」と思うことがなければ、草として成長することすらなかったかもしれない。

そう考えれば、最後の大きな試練も嬉しい試練と思えるのだ。

 

草や花は、土からの栄養素や日光、雨がなければ生長しない。

人もまた、多くの人からの支援がないことには成長に限界はあるだろう。

独りよがりでは、必ず成長は止まってしまうのである。

 

人は誰でも化けられる。

化けた後も闘いは続くが、まずは化けるまでの闘いを乗り越える必要がある。

きれいな花を咲かせる闘いである。

「劣等生」は褒め言葉

「劣等生の方が幸せかもしれない」と最近思う。

それに、世の中もまた、劣等生を求めているように感じるのだ。

劣等という言葉をどう定義するかにもよるが、劣等生は一概に悪いとは言えない。

 

「劣等」という言葉は、通常「“普通”より劣る」と定義されることが多い。

ただ私が思う「劣等」は、「“等しい”ことに劣る」と定義されるものである。

つまり、「周囲と同じであることが得意ではない」と意訳できると個人的には思う。

どちらの定義であっても、「劣等」という言葉をプラスに捉える人は少ないかもしれないが、私はむしろプラスにしか感じない。

 

私は昔から、私の定義でいう劣等生とは言えなかった。

周囲と同じであることが正しいと思っていたし、周囲と同じであることを息苦しいと思ったことはほとんどなかった。

 

ただ年齢を重ねるほど、私は劣等生へと変化しつつある。

なぜなら、周囲と同じでいることに、何のメリットも感じなくなってきたから。

 

“学校”という環境の中では、「優等生」が求められる。

つまり、周囲と同じであることが得意な子ほど、「いい子」とみなされる。

そういった意味では、私は優等生だった。紛れもなく優等生でしかなかった。

ただ優等生であることを、プラスに捉えてもらえていたのは高校生までだったことを記憶している。

 

周囲と同じであっても、毎日に変化は起こらない。

自分のやりたいと思うことを、自分なりの考え方でやってみるからこそ、自分も楽しいし、周りも自分を知ろうとしてくれるようになる。

毎日を楽しむための努力や、毎日を変化させるための努力は、自分でしなければならない。

 

私は劣等生になることに苦労している。

そもそも自分の「やりたい」と思うことを探すことから始めなければならなかった。

優等生でいると、「やりたい」と思うことの内容についても「正解」があるように思えてくる。

つまり、自分がしたいと思うかというよりも、周りに自分がすることを求められているかどうかに軸がいってしまうのだ。

そうなってしまえば、間違いなく選択肢は狭まってしまう。

私には、「やりたい」と思えることが長い間なかった。それは優等生だったから。

 

今の私には、「やりたい」「やってみたい」と思えることがある。

それが成功するか、失敗するかということを考える必要はない。

成功するためにどうしたらいいのか、ただひたすら考えて挑むだけだ。

 

そんな私を、周囲と一緒ではないからと否定する人はいない。

むしろ、そういった自分の思いの実現に挑戦する人を応援する人や環境は増えてきている。

あとは自分の思い次第なのである。

 

ずっと優等生だった。

だからこそ、劣等生になることが難しく感じてしまう。

でもそれは、自分の中での勝手な概念が作り出している大きな壁なのだ。

夢を実現するための私の挑戦は、「劣等生」になるための挑戦ともいえる。

 

劣等生と言われることに引け目を感じている人は多いかもしれないい。

でも私にとって、「劣等生」という言葉は褒め言葉の一つである。

【まとめ】ミニ小説も書いています!まとめて読んでみませんか?

本数は大してありませんが、「ミニ小説」というカテゴリでいくつか記事を投稿しています。

是非、この機会に読んでみて頂けると嬉しいです!

 

 

freno-c5h.hateblo.jp

 

 

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「学歴」と「人間力」はイコールではない

「子供の学力」と「家庭の経済力」が結び付けて語られることが多くなった。

つまり、裕福な家庭ほど教育を受けるチャンスが増え、経済的に厳しい家庭ほど子供が“自力で”学ばなければならなくなる可能性が高まるということだ。

 

私はごく普通の家庭で育った。

貧しさで苦しんだ経験はないが、逆に何でも買えるほどの裕福さもなかった。

きちんとした学習塾に通った経験は、中学2~3年くらいの約2年ほどだったと思う。

中学までは地元の学校に通い、高校と大学は私立の学校へ進学した。

 

そんな学歴をたどった私がどのような社会人人生を送っているか。

大学卒業後は3年間アルバイト生活を送り、その後にとある企業に就職、それから今の会社に至るまでに2度の転職を経ている。

転職といっても、「キャリアアップ」とは到底言えないもので、正直なところ胸を張って言えるキャリアを歩んではいない。

どく普通の家庭に育ったからこそ、ごく普通のキャリアになったのだと言われれば、十分納得のいく結果なのかもしれないと感じる。

 

大学全入時代と言われるようになった今、だからこそ学歴にこだわる人は増えたのかもしれない。

「大卒」というだけで価値を持っていた時代は過ぎ去り、今や「どこの大学」に行ったのか、大学で「何を」学んだのかということが求められる時代だ。

だがそこには、明らかに矛盾が生まれるというのもまた事実である。

どんなに有名大学を出ていても、大学で立派なことを学んでも、それが「立派なキャリア」に直結しないということはよくあるからだ。

 

高学歴というだけで仕事ができるとは限らない。

同じ高学歴でも、仕事ができる人と仕事ができない人の両方がいる。

両者の違いはどこにあるのか。個人的に思うのは、「努力したかどうか」だ。

高学歴でも、自分の立場に謙虚になり、周りに敬意を払って、学ぶべきことを素直に学び、そしてそれを自分のものにできるように人一倍努力をする人がいる。

そういう人は、むしろ高学歴ということとは無関係に、成功を収め多くの人に自然と敬われる。

しかし一方で、高学歴であるという事実の上であぐらをかき、何の努力もせず、ただただ威張り、指示ばかりする人間もいる。

そういう人は、肩書ばかりにこだわり、権力を得ることばかりを考えているから、困ったときに手を差し伸べてくれる人はいなくなり、孤独な戦いを強いられることになる。

 

仕事は一人では絶対に完結しない。

いろいろな人が関わるからこそ、仕事に厚みが生まれ、確かな成果を残すことができる。

一人で完結した仕事はどこまでいっても独りよがりで、言うなれば自己満足にすぎないということが多い。それが現実だ。

 

高学歴。

それはそれだけでは全く意味を見出さないもの。

肩書きなどと同じように、その人の「導入部分」を表現しているにすぎない。

私は決して、「高学歴コンプレックス」ではない。

高学歴で、人としても成熟していて、尊敬する人を私は知っている。

一方で、学歴は普通でも、人格が優れていて、目標にしたいと思える人も私は知っている。

 

学歴は、その人の「過去」を表現するものだ。

一方で人として最も大切なことは、「将来」を考える力である。

【ある休日のこと】一期一会は突然に

ただただ天気が良いというだけで、私は車に乗り込んだ。

一人ドライブが好きで、時間があるといつもちょっとだけ遠くまで車を走らせる。

人と関わることが苦手ということではないけれど、一人の時間は好きだ。

今日もまた、一人の時間を満喫するためにちょっとだけ遠くに向かう。

 

しばらくのんびりと車を走らせていると、お昼ご飯を食べていないことに気付く。 

お昼ご飯を食べるために、偶然通りかかったお食事処に立ち寄った。

 

お昼の時間はだいぶ過ぎていたが、それでも大繁盛で相席も出るほどの混みようだった。

しばらく待って通されたテーブル席に座り、注文をして食事を待っている間、私は周囲の人の様子をぼんやり眺めた。

家族連れや、お休みの日も働く会社員の人たち、そして女性だけのグループなど、お客様の層は幅広い。

 

「こちらお邪魔していいかしら?」

一人のおばちゃんが、私の向かいの席を指さして訊ねてきた。

「ええ、どうぞどうぞ」

私は笑顔でそう答える。

 

席に座るやいなや、そのおばちゃんはフランクに私に話しかけた。

「一人なの?今日は旅行?」

そういった投げかけから始まり、おばちゃんは何でもズバズバと私に質問してくる。

「結婚してるの?お子さんは?」

年齢を言うと、この手の質問はよく聞かれる。

私は30歳過ぎの年齢でありながら独身。恋人すらここ数年いない。

この質問に引け目を感じなくなったのはほんの最近のこと。

私は仕事や自分一人の時間が大切で、恋愛や結婚に対してあまり関心がない。

それが私だし、何を言われてもそれは変わらないと自分で感じているので、最近は開き直っているのである。

 

「いません」と答えながら、次に言われる言葉は何となく予想がついた。

「そろそろ結婚しなきゃ」とか「結婚と子育ては大事な女性の仕事よ」とか、田舎ほど悪気もなくそう言ってくるのだ。

 

でも、そのおばちゃんから返ってきた言葉は予想外だった。

「わかるわー。私もそうだったもの。あ、過去形じゃなくて現在進行形ね」

照れ笑いをするおばちゃんの顔を、私は思わず静かに見つめた。

「私ね、ここの人間じゃないの。遠くから、一人で移り住んできた人間なのよ。

若いころは本当に仕事人間で、毎日毎日、仕事をしてるか一人で過ごすかの日々だった。

でもふと、仕事がなくなった老後の生活を想像したときに、本当にこれでいいのかと思い始めてね。

思い切って、自分の生き方を変えようって急に思い立ったのよ。

だけど地元にいたら、どんなに頑張っても今の生活は変えられないと思ったから、住む場所も変えてしまおうと思ってここに来た。

今でも独り身だけど、毎日このお店に来て、こうやってあなたに話しかけたように、いろんな人と話して毎日を楽しんでるわ」

おばちゃんは、終始笑顔で楽しそうに話し続けた。

 

「人とのつながりは、何歳からでも作れるものよ。

今でも私は、結婚や子育てとは無縁だし、今後それを求める気持ちも全くないわ。

でもこうやって、たくさんの人とふれあうことが好きで、今は一人の時間と同じくらい好きな時間。

今になって、あまり大切に思ってこなかった地元の友達とも連絡をとりたいって思うようになったわよ」

そう話すおばちゃんの目には、ほんの少しだけ寂しさがにじんでいるように見えた。

 

ご飯を食べ終えて、私はそのおばちゃんとお別れのあいさつをした。

「また会えるといいわね」と言いながら、おばちゃんも私もお互いの連絡先などは聞かなかった。

「出会いはいつでも一期一会。いつでも会えると思うから、人は皆会えた時間を無駄にしてしまうのよね」

そう言ったおばちゃんの言葉に私も納得したから、お互いのことをそれ以上聞かないのが自然な流れに思えた。

 

車に乗った私は、地元の友人から来ていた連絡に返信していないことを思い出した。

私もあのおばちゃんのように、地元の友人をあまり大切にしてこなかった。

それは多分、いつでも会えると思っているところがあったからなのかもしれない。

 

向かう先を変更しよう。

たまには知らない土地ではなくて、よく知っている土地へ向かうのも悪くない。

【情報・私見】「裁判」と聞いて関係ないと思っていませんか?

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突然ですが、皆さんにとって「裁判」というとどのようなイメージがありますか?
「難しい」とか「関係ない」と思いがちではありませんか?

 

しかし、2009年5月より裁判員制度がスタートしてから、地方裁判所で行われる刑事事件裁判の中でも重大な犯罪に関する裁判については、裁判員として選ばれた国民が裁判に参加することになったので、他人事とは言いづらくなりました。

裁判員として参加するだけでなく、実際に判決を決める立場に立つことについて、プレッシャーやストレスを感じる人を多いと聞きます。
確かにそういった「人を裁く場」に参加することは、何度経験しても慣れることではないかもしれません。

しかし、普段から「自分だったら」という感覚を持って世の中で起きている事件や出来事について考えるようにしていれば、少しだけ気持ちを整理しやすくなるかもしれません。

 

そこで、この「判例情報と私見」のカテゴリーでは、皆さんに少しでも「裁判」や「法律」を身近に感じてもらえるような内容をお届けします。

実際の裁判例を1記事で1つ取り上げ、事件の概要や論点を図などを使って解説。
その後、皆さんであればどのような判断を下すか考えて頂き、最後に実際の裁判ではどういった結論を出したのかを解説します。

 

今回は早速、1つの事件を紹介してみます。
どうか気楽な気持ちで、読み進めてみてください。

 

 

1.事件の概要

 (1)事件番号・事件名

  ◎平成29年(わ)第1207号、平成30年(わ)第23号
  ◎殺人・傷害被告事件(裁判員裁判
  ◎平成30年10月5日/福岡地方裁判所

(2)事実の概要

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上記の図式の通り、今回の事件では「妻」が被告人となります。
2度にわたる夫婦喧嘩への苛立ちを解消するために、妻は子どもへ暴力を振るいました。

1度目は全治約10日ないし2週間を要するけがを子供に負わせ、2度目は何度も胸腹部を踏みつけることによって子供を死亡させています。

(3)争点

上記「事実の概要」の(4)で被告人が子どもを死なせたときに、

1)被告人に殺意があったか。
 ⇒つまり、被告人は「殺そう」という意思を持って子供に暴力を振るっていたか。

2)被告人に責任能力はどの程度あったか。
 ⇒つまり、被告人の精神状態は正常といえたか。

(4)求刑(検察側)・科刑意見(弁護側)

◎求刑  :懲役12年
◎科刑意見:懲役3年・執行猶予5年

*1

 

 2.争点に対する裁判所の判断

1)被告人に殺意があったか。

①:被告人の行為に危険性はあったか 

 ・医師の供述によれば、少なくとも数秒間、身体の厚さが2分の1以下になるような
 強い圧迫がないと「心臓破裂」には至らない。

 ・被告人も、力加減することなく、自分の全体重をかけて子を踏んだと供述。

 ⇒被告人の行為は子を死亡させる危険性が極めて高いものといえる。

 

②:被告人は自分の行為の危険性を認識していたか

 ・被告人は照明の点いた室内で、子が足元にいることなどの周辺の状況を十分認識した上で行為に及んでいる。

 ・被告人は以前も子を踏みつけたことがあるが、その際は「子が死んではいけない」という認識のもと、死ぬ危険性の高い腹を避けるために子を仰向けからうつ伏せの体勢に変えたり、自分自身も力加減をしたりして踏みつけている。

 ⇒被告人は自分の行為が子どもを死亡させる危険性を十分理解していたといえる。

 

【結論】被告人は、子が死ぬかもしれないがそれでも構わないという程度の殺意があっ
    たと認められる。

 

2)被告人に責任能力はどの程度あったか。

 ◇捜査段階において精神鑑定を行った医師の説明事項◇

①:被告人の精神障害とその特徴

 ・「軽度精神遅滞
 精神年齢が9歳ないし12歳程度で、学習困難はあるが社会的貢献は可能。

 ・「自閉症スペクトラム障害
 対人関係や他者とのコミュニケーションに関する障害など。

 ・「適応障害
 ストレスを受けた際に生じた過剰な反応。

 ⇒基本的には通常人がカッとなった時と同じ状態で、周囲の状況がわからないといっ
  たことや、善悪の判断への影響はなし

 

②:被告人の精神障害の程度・本件犯行への影響

 ・本件犯行は、「適応障害」の現れによって生じたもの。

  ● 軽度精神遅滞の影響で、被告人はそもそもルールや規範についての理解が低く、
   それが一定程度今回の犯行に影響を及ぼしたが、直接的な影響は大きくない。

  ● 自閉症スペクトラム障害は、今回の犯行に直接的な影響を及ぼしてはいない。

  ● 軽度精神遅滞自閉症スペクトラム障害の影響で、一般人に比べてストレスを溜
   めこみやすくなり、被告人が適応障害に陥りやすい状態を作り出してしまった。

 

 ◇上記の医師の見解を基礎として、被告人の責任能力の程度を検討◇

①:被告人の善悪の判断能力

 ・被告人の日頃の能力を検討すれば足りる

       ● 被告人は、周囲の人に自分が子に暴力を加えた事実を否定する嘘を言って罪を
     逃れようとしたこと、以前に踏みつけた際には方法を選び、力加減もしたこと
     から、被告人は善悪の判断が可能だった。

     ● 弱者である子に苛立ちをぶつける行為は、卑劣ではあっても不自然ではなく、
      幻覚や妄想とは無関係といえる。

     ●  今回の犯行を行った行為は、それまでの被告人の子に対する行動の延長とも
       言えることから、全く別人のふるまいとは見受けられない。

     ●  被告人は法廷で悪いことをした旨を述べていることなどから、被告人が精神
       障害を有することを考慮しても、少なくとも被告人の善悪を判断する能力が
    著しく低下していたとはいえない。

②:被告人の自身の行動をコントロールする能力

  ・被告人の犯行行為は精神障害に基づくものではない旨を医師が説明

      ● 被告人は犯行当時、行為を思いとどまる余裕がない状態ではあったが、それは
    被告人の性格等によるもの。

  ・ 行動のコントロールは、十分ではないものの、一定程度は出来ていた

      ● 被告人は子を踏みつける前に、地団駄を踏んで強く足踏みをしたり、子が寝て
    いた場所から少し離れた場所の襖を蹴るなどしており、いきなり子を踏みつけ
    ているわけではない。

【結論】被告人は犯行当時、完全責任能力を有していたと認定。

 

さて、ここまで見てきた事件の概要や、事件で争点になった点の裁判所(裁判員)の判断を読んで頂いた上で、皆さんであればどのような結論を導きますか?
もちろん、上記のような争点に関する判断も、裁判員になるとしていかなければならなくなりますが、とりあえずは結論だけ考えてみてください。

これから、実際の裁判所が出した結論を書いてみたいと思います。

 

3.裁判所が出した結論

(1)主文(結論)

  被告人を懲役7年に処する(拘留されていた220日は、この7年の中に加えられる)

(2)量刑の理由

 ・犯行行為は非常に危険な行為であったといえる

   ● 子の頭や胸腹部を全体重を乗せて、手加減することもなく、3回にわたり、心
    臓が破裂するほどの強さで踏みつけている。

   ● 現に即死の結果を招いている。

 ・犯行の動機や経緯

   ● 夫婦げんかにより生じた苛立ちを子にぶつけたもので、身勝手極まりない。

 ・被告人の行為(弱い立場の者に苛立ちのはけ口を求める、些細なことで激しく苛立
  つなど)の背景

   ● 軽度精神遅滞等の精神障害の影響があったことは否定しがたく、被告人に対す
    る避難を一定程度減少させる事情といえる。

 

4.まとめ

どうでしたか?
皆さんにとって、納得のいく判決となっていますか?

実際はこういった文章のみならず、様々な物的証拠や人的証拠、証言をする人の生の声なども加わった形で判断を求められることになります。

 

生後間もない子どもが、親に踏みつけられて死亡するという事件というだけであれば、子どもへの同情は高まり、検察側が提示した「懲役12年」でも刑罰が軽いと感じる人はいると思います。

ただ一方で、被告人は精神障害を抱えており、犯行行為の悪質性は否定出来ないものの、被告人に対してもある一定の同情が集まることになるかと思います。

 

感情と客観性をバランスよく保つことは難しいかもしれませんが、それぞれの立場を考えた冷静な判断が求められます。
身近で起こりうる事件だからこそ、一度考えてみるのも良いのではないでしょうか。

*1:「求刑」…検察側が求めている刑罰 / 「科刑意見」…弁護側が求める刑罰

自信を裏付けるものは何か

「あなたは自分に自信がありますか?」

そう問いかけられると、私は首を縦に振ることが出来ない。

しかし、「あなたは自分を信じることが出来ますか?」と言われると、少し答えに迷ってしまうだろう。

 

しかし、「自信」という言葉の意味は「自分を信じること」である。

同じことを聞かれているはずでも、言い方を変えると大きく印象は変わるのだ。

 

決まった仕事や決まった能力に関してであれば、自分を信じることが出来るか、自信があるかは答えることができる。

なぜなら、やったことのない仕事や、身に付けていない能力に関しては、自分の力を信じられなくて当然だし、逆に自分が長く携わってきた仕事や、資格を取得するなどして身に付けている能力に関しては、自分の力をある程度信じる事ができるはずだからだ。

 

ただ漠然と、「自分を信じることができるか?」と言われると、とたんに答えが難しくなってしまう。

 

「自信」という言葉は、何気なく使ってしまっているが、その言葉の意味を理解したとき、使うことの難しさを感じた。

「自信がある」と言うために必要なことは何なのか。

その問いと、私は毎日向き合っている。

 

「自信」は、経験に裏付けられているものだと私は思っている。

でも、その私の認識を覆してしまうのが子どもの存在である。

子どもたちと触れ合う機会があったときに思ったのは、何をするにしても子どもたちは自分でやりたがるし、全てに自信があるように感じ取れるということだ。

誰もが経験あると思うが、子どもはほとんどのことを「やってもらう」よりも「自分でやりたい」と思う傾向がある。

子どもの自信は経験に基づかない。

誤解を恐れずに言うならば、子どもの自信は「根拠のない自信」だ。

でも、子どもは子どもなりに、「自分にならば出来る」と思ってやっている。

そう考えれば、「自信」は経験だけには裏付けられないように思った。

 

「自分を信じることができますか?」

その言葉の裏に、私は最近、「自分の心の強さ」を求められているように感じている。

経験があっても自信を持ちきれない大人と、経験がなくても自信たっぷりの子どもの違いは、「傷付く経験の多さ」である。

大人は長く生き、多くの人と関わり、あらゆる環境に身を置いた分、傷付く経験をたくさんしている。

だからこそ、何かをしようと思うとき、失敗を恐れたり傷付く自分を想像したりしてしまって自信を無くしてしまう。

それはまさに、自分の心の弱さに負けているということではないか。

子どもは、大人ほど「傷付く経験」をしていない。

だからこそ、何かをしようと思うとき、自分が成功することしか想像せず、自信たっぷりに挑むことが出来てしまう。

 

大人が子どものように、根拠のない自信を持つことが出来るように戻れるとは思わない。

ただ、強い気持ちを持つことが自信につながるのであれば、きっと誰もが出来ることなのではないだろうか。