新年明けましておめでとうございます
明けましておめでとうございます!
本年もどうぞ宜しくお願いいたします。
さて、しばらくお休みさせて頂いていたこのブログ。
いろいろと模索してここをやめることも考えましたが、
もう少しだけお付き合い頂けますと幸いです。
私は現在、こちらのはてなブログと、アメーバブログ、noteをやっています。
これまでは、それぞれであまりジャンルを絞らずにやってきましたが、
今年からはジャンルを変えてやってみようかと思っています。
それぞれ内容は以下の通りです。
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【はてなブログ】
★「心理学」関係のコラム
・対人関係に関わる心理学
・言葉の説明、具体例とともに、私なりのご提案をお届けします。
※あくまでも私個人のご提案となりますので、ご参考までに。
【アメーバブログ】
★地方創生に関わるコラム
・各地域での地方活性化の動きをご紹介
・全国的な統計や取り組みなどについてもお話ししています。
★ITに関わるコラム
・今後作成予定です。
【note】
★エッセイ
・その時その時で感じたことや思うことをエッセイにします
・こちらのはてなブログで書いていたようなエッセイも今後はnoteに掲載
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今後ともどうぞ、宜しくお願い致します。
「人との出会い」が生き方を変える
歳の割に大人びている人と、反対に歳の割に子供っぽい人はどちらも存在する。
見た目の問題である場合もあるが、ほとんどの場合は、その人の性格や言動に起因するものが多い。
大人びた性格と子供っぽい性格の分かれ目は、一体どこにあるのだろう。
私はよく、「落ち着いてるね」とか「大人びているね」といった言葉をかけられる。
それは幼い頃からで、それが理由でいじめられたこともあった。
もちろん自覚はないので、自分がどれだけ大人びているのかということはわからない。
そもそも自分では、自分のことを子供っぽいと思っているから、分からなくて当然だろうと思う。
ただ個人的に、この大人びているとか子供っぽいとか、そういった性格、人格を作り上げているのは、その人が出会った「人の数」で決まると思う。
多くの人と出会い、たくさんの会話や情報交換を行うと、幅広い知識や考え方、生き方に触れることになる。
世の中には驚くほどとびぬけた生き方をしている人もいるが、そういった人に出会うことが多いほど、自分自身の人間性も少し厚みを増していく。
そうすると、自分にとっての「普通」の幅が広がっていくので、大体のことに対応できるようになるし、何事にも慌てることがなくなる。
それこそが「落ち着き」につながり、それが大人っぽさを作り出している。
世の中には、いくつになっても子供っぽい考え方しかできない人がいる。
多くの知識を身に着け、それなりの経験をすれば、多くの人と出会わなくても確かに知識武装を行うことができ、物事を理解することもできる。
しかしその理解は、あくまでも机上でのもので、事実をそのまま解釈するだけにすぎない。
多くの人と出会い、多くの人生観や考え方などに触れると、目の前にある事実に少し肉付けを行ったうえで理解するということが出来るようになる。
そうすれば、生きることはもっと楽しくなるはずなのである。
人との関わりが少ない人は、時に臆病である。
そして、傷つくことや壁にぶつかる経験も乏しいことが多いので、ちょっとしたことに傷つき自分の殻に閉じこもりがちになる。
そうなると、次にやることは決まって、周りへの攻撃的な態度をとるのだ。
そして、ますます人との関わりやつながりを失い、気付けば孤立しているということはよくある。
とてももったいないことをしているとしか言いようがない。
年齢を重ねても、自分の意見や思いを言葉に出来ない人がいる。
そういう人の多くは、自分を大きく見せることに精いっぱいになり、ただただ周りに敵を増やしているだけにすぎない場合が多い。
大人になれとはいわない。
ただもっと多くの人とふれあい、広い心をもつほうが生きることは何倍も楽しくなる。
人と関わることを楽しむ
「あまのじゃく」という言葉がある。
生物ではなく、人に対して使う場合を考えてほしい。
別の言い方をすれば、「ひねくれもの」とも言うだろうか。
正直私自身も、あまのじゃくな部分はあるという自覚がある。
この「あまのじゃく」的な要素は、心理学的にいうと「スノッブ効果」と呼ばれるものだろうか。
つまり、誰も持っていないもの、誰も知らないことだからこそ、欲しい、知りたいと思う心理状態のことだ。
逆に、「みんなと同じ」ということに価値を見出す考え方もある。
特に日本人によくみられる傾向だと言われているが、これは心理学的にいうと「バンドワゴン効果」と言われる。
これはスノッブ効果とは逆で、みんなが持っているからこそ持っている、誰もがやっているからこそやっても安心といった心理状態のことを表す言葉である。
どっちが正しいというわけでもないが、この2つの効果を掛け合わせることで、マーケティングやセールスにつなげる手法はよく使われている。
ただ個人的に思うのは、これら2つの効果は、人間関係にも大いに影響を与えていると言えるということである。
例えば、皆さんの周りにも一人は「情報通」もしくは「噂好き」な人がいないだろうか?
そういう人の周りには、不思議なことに人が集まりやすいものだ。
誰も知らない最新情報や、根拠が曖昧でも知っている人が少ない話などには魅力を感じ、知りたいという欲求を誰もが持っている。
そう考えれば、これも一種の「スノッブ効果」といえるのではないか。
また例えば、最近流行っている「PayPay」などのようなキャッシュレス決済。
どうしても慣れないものということもあって、日本ではまだまだ活用する人は多くないと言われているが、少しずつ増えつつある。
「還元ポイント」などの話題もあったからこそかもしれないが、ニュースで取り上げられたり、身近で使う人も増えたからこそ、「やってみようかな」という人が増えてきた。
もっと使う人が増えなかったり、報道で取り上げられることがなければ、多分もっとキャッシュレスの利用者は増えずにいただろう。
みんなやっているなら大丈夫、みんながやり始めているなら自分も始めないと、といった心理が働く。
これはまた、ある種の「バンドワゴン効果」といえる。
こういった心理学に基づいて、人間関係や人間の行動を考えてみると、人間の行動の構造が見えてくる。
こういった視点から、人との関わり方、言葉選びをやってみるのも良い。
そのためにはまず、相手がどういう性格の人で、どのような思考回路を持っている人かということを知る必要はある。
常日頃、周囲の人の動作や発する言葉、考え方などに敏感でいる必要がある。
大変なことかもしれないが、癖付けが出来ればいくらか人間関係は楽になる。
そういう視点で、少し冷静に周囲の人を見てみると、意外と人と関わることが楽しく思える。
「涙」は人を支える
何か嫌なことがあったり、逆に嬉しすぎることがあったり、どんな感情であっても気持ちが高ぶると人は涙を流す。
そしてその後、人によって時間のばらつきはあれど、沢山の涙を流すと不思議と気持ちが落ち着いたりする。
「涙」は、「さんずい(水)」に「戻る」と書く。
この「涙」という言葉の語源は様々にあるが、私の個人的な解釈としては、「感情を水として出すことで日常生活を取り戻す」と考えている。
言葉として表すと少し堅苦しい解釈だが、私の中では一番腹落ちする解釈なのである。
人は日常生活を生きる中で、大小問わず、あらゆることに感情を持つ。
うまくいかないことがあれば苛立つし、何かをやり切って結果を出せば喜んだりもする。
その感情のほとんどは、時間とともに薄れていくか、知らず知らずのうちにその人の中に少しずつ蓄積されていく。
この蓄積された感情がいっぱいいっぱいになるか、もしくは急に大きな感情が湧き出た時、人は涙を流すことになる。
人は皆、常に何かしらの感情を持っている。
でも、その感情の度合いは適度でなければ、人は自分をコントロールしきれなくなる。
だからこそ人は、適度に自分の中の感情を自分の外に置いていくのである。
「置いていく」と表現すると違和感を感じる人も多いだろう。
普通は「吐き出す」というのだろうし、その方が何となくわかりやすくなる。
私は以前の職場で、心無い言葉を言われたことがある。
職場に自分の存在意義を求めていた当時の私は、とにかく悔しくて悲しくて、職場から帰る道中、泣きながら運転していたのを今でも覚えている。
しかし、ある程度思いっきり泣いてしまったら、気持ちは落ち着き、冷静に次のことを考えるようになった。
泣いている間は「もうどうでもいい」と思い、仕事をする気をなくしていたはずなのに。
溢れ出る感情を、日常的に過ごす車中での日常的な時間や空間に水として出して置いたことで、私は日常生活を取り戻すことが出来たのだ。
「涙」は、人が日常を取り戻すためのもの。
何度涙を流しても、気持ちが晴れないことも当然あるだろう。
それほど大きな感情を詰め込んでいるのだから、その時は何度泣いてもいい。
一方で「涙」は、嬉しいとか楽しいとか、プラスの感情さえも落ち着かせることがある。
それは悪いことのように感じるかもしれないが、人にとってはとても大切なことだ。
人は気持ちが高ぶりすぎると、適切な判断が出来なくなってしまうことがある。
だからこそプラスの感情さえも、行き過ぎてしまった場合は、抑えて日常を取り戻すことが必要になるのだ。
感情があるからこそ、人生は楽しい。
ただ、感情に任せた行動は適度である必要がある。
面白い、わくわくする、夢のある生き方は、感情とうまく付き合った上に成り立つ。
その手助けをしてくれるのが「涙」なのである。
あえて結婚しないという選択
1.新しいカテゴリー記事をスタートします!
今回から、新たなカテゴリーの記事を投稿していきます。
そのカテゴリーは、「#独身女の主張」です。
個人的ではありますが、私はアラサーの独身女です!
ただ、独身であることに引け目は全くないですし、焦りも全くありません。
独身だからこそ出来ることも沢山あって、私はそんな生活を楽しんでいるタイプです。ただ、世の中の独身女性が、全員私と同じ感覚とは限りません。
そこでこのカテゴリー記事では、様々な独身女性にフォーカスを当てた記事を書いていきたいと思います。
第一回目の今回は、「結婚しないこと」をあえて選択している女性についてです。
2.あえて「結婚しない」理由って?
今、男女関係なく独身の割合が増えていると言われています。
内閣府のHPで公表されている統計によると、下のグラフの通り、2015(平成27)年には、30~34歳の男性ではおよそ2人に1人、女性ではおよそ3人に一人が未婚となっています。
もちろん、すべての人が「あえて」結婚していないというわけではないと思いますが、この中に「あえて」結婚していない人は確実に存在します。
そこで、そういった人たちがあえて結婚しない理由をいくつか紹介してみます。
(1)仕事がいきがい、楽しくてたまらない
男女関係なく、仕事の中で重要なポジションに就くことが出来るようになった現代では、女性も男性同様に、20代後半から30代にかけてが一番仕事にやりがいを見出す時期になっています。
そうすると、出産をしなくても、結婚するだけで家事に時間をとられてしまうという感覚が生まれ、それを避けたいと思うようになってしまいます。
働く時間が削られてしまうことは働く女性にとって、とてつもなくマイナス要素に感じてしまうのです。
また、家事分担をしてくれるパートナーに恵まれたとしても、世の中ではまだ「女性が家庭を守るもの」という認識が残っていますので、否定的に見られてしまう可能性が高いのが現実です。
それならば、いっそ結婚しないで、全力で仕事だけに専念した方がいいと思うのです。
それだけ女性が活躍できる場が増えてきているということだと思うので、喜ばしいことだなと個人的には思っています。
(2)「結婚」にプラスのイメージがない
これは、私も納得の理由です。
私の周囲でも、結婚・出産を終えた友人・知人が多くなってきましたが、仲がいい夫婦というパターンはあまりないイメージがあります。
パートナーの愚痴を言ったり、家事や育児が大変を話したりしているのを見ていると、結婚したいという気持ちはあまり湧いてきません。
また実際、自分が結婚した場合、自分もそうなってしまう気がして、それは嫌だなあと思ってしまうのが正直な気持ちだったりします。
もしかしたら、その不満や愚痴は本気ではないかもしれません。
それでもやっぱり、愚痴ったり嘆いたりするような時間ばかりを過ごすよりは、もっと他のことに時間を使いたいと思ってしまいます。
(3)自分の時間を大切にしたい
当然、結婚しても自分の時間を作ることはできると思います。
しかし、パートナーの理解と協力は必要ですし、出産した場合はどうしても子供と一緒に動かざるを得ない状況になってしまうのが現実です。
この理由を挙げる人の多くは、自分の趣味や好きなことがある人だと思います。
例えば、ふと思い立って旅や旅行に行きたいと行動してしまう人や趣味のイベントなどへの参加が楽しみで、時間や場所を問わず常に参加してしまうといった人など、とにかくいつでも身軽に行動できる環境が必要な人は、どうしても自分の時間を大切にしてしまうのです。
家庭を持てば、パートナーや子供、親族の都合に合わせなければならない場面は少なからず出てきてしまうものです。
そう考えれば、やはり一人の方がはるかに気楽で自由にいられると思ってしまいますよね。
とりあえず、以上3つの理由を挙げてみました!
他にも様々な理由がありますが、一番多そうな理由を今回は紹介してみました。
3.とはいえ、不安もある…
独身でいることは、確かに楽で自由な面もありますが、一方で不安を感じる面もあるのが現実だったりします。
やりたいことをやりたいだけやって、時間に縛られることなく沢山働いたことで多くの貯蓄を得て、何不自由ない生活を手に入れたとしても、ふと不安に感じることはあるものです。
ということで、こちらもいくつかご紹介させて頂きます。
(1)将来孤独なのではないか
パートナーや子供がいれば、年をとって仕事から離れても、一緒の時間を過ごしてくれる人がそばにいてくれます。
若いうちは仕事ややりたいことを自由にできて、時間などに縛られないことが何よりも魅力的に感じてしまいますが、すべてが落ち着いてゆっくり過ごしたいとなったときに、一人で過ごすことになってしまうのは寂しいと感じる人も多いのではないでしょうか。
また、もし老後に寝たきりになったり、施設で過ごすことになったりした場合に、会いに来てくれたり、自分の最期を看取ってくれる人がいなかったりするのは正直心細いと感じる人も実際にいるようです。
(2)自分の生きた証がない
これは男性的な考え方かもしれませんが、子供がいないことで、自分が生きてきた理由は何だったのだろうと悲観的に考える人もいるようです。
そのようなこだわりはないという人も一方では多いので、誰でもに当てはまる理由ではないと思いますが、これもまた独身を貫いた先に生じる可能性のある不安なのかもしれません。
4.その時その時の気持ちを大切に
結婚はあえてしないと思っているときは、きっと本当に結婚することはないと思います。
なぜなら、結婚や恋愛に興味がないときは、不思議なことに出会いもないというより、出会いに気付かずに日々を過ごしてしまうものです。
ただそれは悪いことではなくて、本当に自分にとって必要ないと思っている結果だと思うのです。
だからそんな時に、無理して出会いを求めたり、自分の気持ちを抑え込んだりする必要は全くなくて、とにかくやりたいことを後悔のないようにやりきることが一番大事です。
ただ、年齢を重ねるにつれて、またいろいろなことが落ち着いてくるにつれて、パートナーが欲しいと考えるようになることがあるかもしれません。
それもまた、何歳であってもおかしいことではなく、むしろ積極的に出会いを求めていくべきだと私は思っています。
人生は、計画通りにいかないのが普通です。
結婚したくて結婚して、子供が欲しくて出産をしたけど、つらいことのほうが多くて逃げだしたいという人もいるでしょうし、逆に願望通りにできて実際も本当に幸せという人もいます。
そして、独身を貫こうと自分で決めて結構長く独身でいたけど、最終的にはやっぱり寂しくてパートナーが欲しいと思う人もいるでしょうし、逆に独身のままで本当に良かったし、死ぬまで一人でい続けたいという人も当然います。
こればっかりは、実際に人生を生きてみないことには分からないことだと思うのです。
ただ、場面場面において、自分の気持ちに正直に生き続けることがとても大切で、ただ一番難しい生き方とも言えます。
結婚するかしないかは、人それぞれです。
そして、どちらが正解ということもないですし、どちらが安泰ということも分かりません。
ただどちらにせよ、自分のした選択には自信を持ってほしいと思うのです。
自分の気持ちに正直に生きることは難しいことですが、その難しい生き方を選んで生きているのですから。
「写真」が持つ本当の価値
誰もが一度は、撮ったり見たりしたことがある「写真」。
思い出を残す為、あるいは何かを記録する為の手段として利用されることが多い。
私の母も、私の幼い頃の写真を見て、よく昔話を嬉しそうにしてくる。
写真を見ただけで、その当時の記憶が呼び起こされ、思い出話の内容はより濃くなる。
そして不思議なことに、同じ写真を見ても人によって思い出の内容は異なるのである。
しかし、写真は「真実を写す」と書く。
写真はその時の景色を、そのまま寸分違わず映し出しているだけである。
それでも、見る人によって蘇る記憶が異なるのは、ただ単に写真そのものではなく、見る「人」に依存する記憶だからである。
だからこそ、写真は1人で見る以上に「2人以上で」見たほうが面白みはあるし、多くの記憶が蘇る。
私は写真が好きである。
自分が被写体になることは苦手だが、自分の見た景色やモノを写真として残すことが好きだ。
目の前のことに追われ、これまでの自分を振り返ることをどうしても忘れがちになる日々。
しかし、自分のこれまでを振り返る時間は必ず必要である。
自分が何をして、何を考えて、何を感じたことで、何がどのくらい出来るようになったのか。
そういった振り返りを忘れると、人は必ず同じことを繰り返し、その場で立ち止まってしまうことになる。
それを避けるためにも、私は思うことがあるたびに目の前の光景やモノを写真に残す。
それが、私にとっての「写真」を撮る理由である。
さっき、写真は「2人以上」で見るから、いろいろな記憶が蘇ってきて面白いと言った。
しかし実は1人でも、1枚の写真からいくつもの記憶を蘇らせることが出来るし、見る度にその写真から感じる感覚は変化していく。
私は、社会人になって初めて、こっぴどく叱られた日に見た空を写真に残している。
成長したと自分で思えるようになるまでは、その写真を見る度に「つらい」思いしか出てこなかった。
しかし、その時の失敗を乗り越え、さらに自分で何か一つ大きくなれたと思った時にその写真を見たときは、「つらい」思いと同時に「誇らしさ」も感じることが出来た。
写真は、そういった楽しみ方もあるのである。
「写真」それ自体は、ただひたすらに真実をありのままに写し出すものである。
そこに意味を見出すことが出来るかどうかは、捉え方次第だ。
もちろん、写真は記録や思い出を残す手段にすぎないと考えるのも間違いではない。
でも、残すだけではもったいない価値が、写真にはあるように感じる。