「学歴」と「人間力」はイコールではない

「子供の学力」と「家庭の経済力」が結び付けて語られることが多くなった。

つまり、裕福な家庭ほど教育を受けるチャンスが増え、経済的に厳しい家庭ほど子供が“自力で”学ばなければならなくなる可能性が高まるということだ。

 

私はごく普通の家庭で育った。

貧しさで苦しんだ経験はないが、逆に何でも買えるほどの裕福さもなかった。

きちんとした学習塾に通った経験は、中学2~3年くらいの約2年ほどだったと思う。

中学までは地元の学校に通い、高校と大学は私立の学校へ進学した。

 

そんな学歴をたどった私がどのような社会人人生を送っているか。

大学卒業後は3年間アルバイト生活を送り、その後にとある企業に就職、それから今の会社に至るまでに2度の転職を経ている。

転職といっても、「キャリアアップ」とは到底言えないもので、正直なところ胸を張って言えるキャリアを歩んではいない。

どく普通の家庭に育ったからこそ、ごく普通のキャリアになったのだと言われれば、十分納得のいく結果なのかもしれないと感じる。

 

大学全入時代と言われるようになった今、だからこそ学歴にこだわる人は増えたのかもしれない。

「大卒」というだけで価値を持っていた時代は過ぎ去り、今や「どこの大学」に行ったのか、大学で「何を」学んだのかということが求められる時代だ。

だがそこには、明らかに矛盾が生まれるというのもまた事実である。

どんなに有名大学を出ていても、大学で立派なことを学んでも、それが「立派なキャリア」に直結しないということはよくあるからだ。

 

高学歴というだけで仕事ができるとは限らない。

同じ高学歴でも、仕事ができる人と仕事ができない人の両方がいる。

両者の違いはどこにあるのか。個人的に思うのは、「努力したかどうか」だ。

高学歴でも、自分の立場に謙虚になり、周りに敬意を払って、学ぶべきことを素直に学び、そしてそれを自分のものにできるように人一倍努力をする人がいる。

そういう人は、むしろ高学歴ということとは無関係に、成功を収め多くの人に自然と敬われる。

しかし一方で、高学歴であるという事実の上であぐらをかき、何の努力もせず、ただただ威張り、指示ばかりする人間もいる。

そういう人は、肩書ばかりにこだわり、権力を得ることばかりを考えているから、困ったときに手を差し伸べてくれる人はいなくなり、孤独な戦いを強いられることになる。

 

仕事は一人では絶対に完結しない。

いろいろな人が関わるからこそ、仕事に厚みが生まれ、確かな成果を残すことができる。

一人で完結した仕事はどこまでいっても独りよがりで、言うなれば自己満足にすぎないということが多い。それが現実だ。

 

高学歴。

それはそれだけでは全く意味を見出さないもの。

肩書きなどと同じように、その人の「導入部分」を表現しているにすぎない。

私は決して、「高学歴コンプレックス」ではない。

高学歴で、人としても成熟していて、尊敬する人を私は知っている。

一方で、学歴は普通でも、人格が優れていて、目標にしたいと思える人も私は知っている。

 

学歴は、その人の「過去」を表現するものだ。

一方で人として最も大切なことは、「将来」を考える力である。