「劣等生」は褒め言葉

「劣等生の方が幸せかもしれない」と最近思う。

それに、世の中もまた、劣等生を求めているように感じるのだ。

劣等という言葉をどう定義するかにもよるが、劣等生は一概に悪いとは言えない。

 

「劣等」という言葉は、通常「“普通”より劣る」と定義されることが多い。

ただ私が思う「劣等」は、「“等しい”ことに劣る」と定義されるものである。

つまり、「周囲と同じであることが得意ではない」と意訳できると個人的には思う。

どちらの定義であっても、「劣等」という言葉をプラスに捉える人は少ないかもしれないが、私はむしろプラスにしか感じない。

 

私は昔から、私の定義でいう劣等生とは言えなかった。

周囲と同じであることが正しいと思っていたし、周囲と同じであることを息苦しいと思ったことはほとんどなかった。

 

ただ年齢を重ねるほど、私は劣等生へと変化しつつある。

なぜなら、周囲と同じでいることに、何のメリットも感じなくなってきたから。

 

“学校”という環境の中では、「優等生」が求められる。

つまり、周囲と同じであることが得意な子ほど、「いい子」とみなされる。

そういった意味では、私は優等生だった。紛れもなく優等生でしかなかった。

ただ優等生であることを、プラスに捉えてもらえていたのは高校生までだったことを記憶している。

 

周囲と同じであっても、毎日に変化は起こらない。

自分のやりたいと思うことを、自分なりの考え方でやってみるからこそ、自分も楽しいし、周りも自分を知ろうとしてくれるようになる。

毎日を楽しむための努力や、毎日を変化させるための努力は、自分でしなければならない。

 

私は劣等生になることに苦労している。

そもそも自分の「やりたい」と思うことを探すことから始めなければならなかった。

優等生でいると、「やりたい」と思うことの内容についても「正解」があるように思えてくる。

つまり、自分がしたいと思うかというよりも、周りに自分がすることを求められているかどうかに軸がいってしまうのだ。

そうなってしまえば、間違いなく選択肢は狭まってしまう。

私には、「やりたい」と思えることが長い間なかった。それは優等生だったから。

 

今の私には、「やりたい」「やってみたい」と思えることがある。

それが成功するか、失敗するかということを考える必要はない。

成功するためにどうしたらいいのか、ただひたすら考えて挑むだけだ。

 

そんな私を、周囲と一緒ではないからと否定する人はいない。

むしろ、そういった自分の思いの実現に挑戦する人を応援する人や環境は増えてきている。

あとは自分の思い次第なのである。

 

ずっと優等生だった。

だからこそ、劣等生になることが難しく感じてしまう。

でもそれは、自分の中での勝手な概念が作り出している大きな壁なのだ。

夢を実現するための私の挑戦は、「劣等生」になるための挑戦ともいえる。

 

劣等生と言われることに引け目を感じている人は多いかもしれないい。

でも私にとって、「劣等生」という言葉は褒め言葉の一つである。