質問することが成長につながる

「どうして空は青いの?」

子どもが聞いてくる質問として最もよく聞く質問だろう。

 

大人にとっては当たり前のことでも、子供は無邪気に「なぜ?」と聞いてくる。

その子供のまっすぐな質問に、ドギマギした経験を持つ人も多いはずである。

でも、この「分からないことを素直に聞く」ということが出来るかどうかは、とても大切なこと。

私がそのことに気付いたのは、大人になってからだった。

 

 

子供のとき、大人に好かれるタイプの子は、いわゆる「いい子」タイプだということに気付いた。

 

私は、自分で言うのもなんだが、子供のころはいわゆる「いい子」タイプだった。

まじめで、先生の言う通りに動き、親が期待していそうな言動を先読みしながら動く。

だからこそ、ある程度の年齢からは、親にも先生にも怒られた記憶がほとんどない。

怒られないようにするためにはどうしたらいいか、自分に期待されていることは何かといったことを常に考えていた。

 

そんな子供時代を送ったことで、私に身についた習慣というか、癖というか、ある種の私らしさが作られた。

そんな自分に自分で気付いたのは、大人になってからである。

  1. 分からないことを「わからない」と言えない分、とことん自分で調べる
  2. 周りが自分に何を求めているのかを考えすぎて、下手に意見を言えない
  3. 周りが自分に求めることを中心に考えていたので、気付いたら「自分がやりたいこと」が分からなくなっていた

プラスと言える部分が、ほぼないということがわかる。

小さい頃に私に身についたのは、「人前では知ったかぶりして、その分、影で努力する」という習慣だった。

 

しかし働きだすと、分からないことは自力で調べたりするだけでは解決せず、どうしても身近な人に質問しないと分からないことはあるということに気付く。

私は社会人になってからの方が、人に叱られる回数が増えた。

 

 

今の私は、子供の頃とは考え方が大きく変わった。

「質問すること」、それ自体は悪いことではない。

質問する前後で、自分で考えないことこそが"悪"なんだと気付いた。

 

何か分からないことがあれば、自分で考え、調べてみる。

それでも分からなければ、きちんと分かる人に質問する。

答えが分かったら、もう一度自分で考えて、自分で"きちんと"理解する。

 

単純なことで、人によっては当たり前の事かもしれないが、この一連の流れが大切。

 

 

子供には、質問の前後で「考える」ということが難しい。

でも、そういう習慣を大人が教えることは出来る。

「少しは自分で考えなさい」とか「そんなの知らないよ」とか、そういうことばを言うのではない。

 

「なぜ空は青いのか」

そう質問されたら、あなたはどう答えるか。

本当に科学的な視点で説明するのか、それとも適当に言葉を取り繕うのか。

 

私だったら、「答えない」ということを選ぶ。

「答えない」とはどういうことか。

質問をされたら、まず子供の見解を聞いてみる。

その見解に対して、逆に私から質問する。

それから、「私には答えが分からないけど、私も知りたいから答えがわかったら教えてほしいな」と言う。

子供にとっては酷かもしれないが、このやりとりの後で子供はまた考えて調べたりする。

その中で、子供は自分なりの答えを見つけ出すことが出来るかもしれない。

自分で考えたり、調べたりすることが不得意な子には、「一緒に考えてみよっか」と言って、一緒に調べてあげればいい。

 

 

質問は、きちんと物事を考えているからこそ出てくるもの。

何一つ恥じる要素はない。

それを自分の中だけで留めたり、自分だけで解決しようとすると視野は狭くなる。

 

質問を受ける側も、質問にただ答えるだけではなく、相手のことをきちんと考えて答えてあげるべきだ。

それが子供相手ならなおさら。

 

質問は可能性を広げる。

その可能性を踏みにじってはいけない。