自信を裏付けるものは何か

「あなたは自分に自信がありますか?」

そう問いかけられると、私は首を縦に振ることが出来ない。

しかし、「あなたは自分を信じることが出来ますか?」と言われると、少し答えに迷ってしまうだろう。

 

しかし、「自信」という言葉の意味は「自分を信じること」である。

同じことを聞かれているはずでも、言い方を変えると大きく印象は変わるのだ。

 

決まった仕事や決まった能力に関してであれば、自分を信じることが出来るか、自信があるかは答えることができる。

なぜなら、やったことのない仕事や、身に付けていない能力に関しては、自分の力を信じられなくて当然だし、逆に自分が長く携わってきた仕事や、資格を取得するなどして身に付けている能力に関しては、自分の力をある程度信じる事ができるはずだからだ。

 

ただ漠然と、「自分を信じることができるか?」と言われると、とたんに答えが難しくなってしまう。

 

「自信」という言葉は、何気なく使ってしまっているが、その言葉の意味を理解したとき、使うことの難しさを感じた。

「自信がある」と言うために必要なことは何なのか。

その問いと、私は毎日向き合っている。

 

「自信」は、経験に裏付けられているものだと私は思っている。

でも、その私の認識を覆してしまうのが子どもの存在である。

子どもたちと触れ合う機会があったときに思ったのは、何をするにしても子どもたちは自分でやりたがるし、全てに自信があるように感じ取れるということだ。

誰もが経験あると思うが、子どもはほとんどのことを「やってもらう」よりも「自分でやりたい」と思う傾向がある。

子どもの自信は経験に基づかない。

誤解を恐れずに言うならば、子どもの自信は「根拠のない自信」だ。

でも、子どもは子どもなりに、「自分にならば出来る」と思ってやっている。

そう考えれば、「自信」は経験だけには裏付けられないように思った。

 

「自分を信じることができますか?」

その言葉の裏に、私は最近、「自分の心の強さ」を求められているように感じている。

経験があっても自信を持ちきれない大人と、経験がなくても自信たっぷりの子どもの違いは、「傷付く経験の多さ」である。

大人は長く生き、多くの人と関わり、あらゆる環境に身を置いた分、傷付く経験をたくさんしている。

だからこそ、何かをしようと思うとき、失敗を恐れたり傷付く自分を想像したりしてしまって自信を無くしてしまう。

それはまさに、自分の心の弱さに負けているということではないか。

子どもは、大人ほど「傷付く経験」をしていない。

だからこそ、何かをしようと思うとき、自分が成功することしか想像せず、自信たっぷりに挑むことが出来てしまう。

 

大人が子どものように、根拠のない自信を持つことが出来るように戻れるとは思わない。

ただ、強い気持ちを持つことが自信につながるのであれば、きっと誰もが出来ることなのではないだろうか。