「向いている」って誰が決めるの?
私の小さい頃の夢は、看護師だった。
それは、身近な慕っている人が看護師だったから。
しかし年齢を重ねると、公務員を志すようになっていた。
理由は、単純かもしれないが、「公務員に向いている」とよく言われていたからだ。
でも今、私は普通に会社員である。
そして同時に、Webライターを志している。
「向いている」って一体何なんだろう。
人それぞれ考え方はあるが、「向いている」というのは客観的な言葉だ。
“自分で”向いているかどうかを考えることほど、不確実な判断はない。
なぜなら、人は自分のことを自分で何より理解できていない生き物だから。
自分の思う「向いている」は、一番疑うべきだと個人的には思う。
ただ、矛盾したことを言うようだが、自分以外の人が言う「向いている」も正しいとは言えない。
人には、いくつもの顔がある。これは悪いことではなく、当然のことである。
そのいくつもある顔のうち、どの顔を見たかによって「向いている」と思うものは変わってくる。
そう思えば、人に言われた「向いている」は、正しくもあり間違いでもあるのだ。
少し複雑な話になってしまったが、結局私が言いたいのは、「向いている」ことはやる前から分かることではないということである。
いろいろなことを経験してみる。
いろいろなものを見て、感じてみる。
そういった中で、自分に向いているものは何なのかということが分かってくる。
何かをやる前に言われる「向いている」は、鵜呑みにしてはいけない。
だからと言って流すのではなくて、一度やってみることをオススメしたい。
向いていると言われたことを、そのまま受け止めるのではなくとりあえずやってみる。
その時、自分が向いていると思うかどうかというよりも、やった上でもう一度自分以外の人に自分がむいているかどうかを聞いてみるのがいい。
そこで「向いている」と言われるのなら、本当に向いているのかもしれない。
ただ、一つだけ忘れないでほしいことがある。
それは、「向いている」と「好き」は違うということ。
誰にでも、必ず「向いている」ことはあるが、それが自分の「好き」なこととは違うということは往々にしてある。
自分に本当に向いていることでも、自分がそれを好きになれないならやるべきではない。
どんなに向いていても、どんなにその分野で何かを成し遂げても、自分の気持ちは満たされないから。
でも、逆はあっていい。
つまり、向いているとは言えなくても、好きだと思うものはやるべきである。
やりたいことがないという人は、「向いている」と言われたことを全てやってみるといい。
本当に向いていることや、自分が楽しいと思えることに出会えるかもしれない。
一方で、自分が「好き」なことや「やりたい」ことがある人は、もし向いていない場合でもやり続けるべきだ。
「向いていない」は、いずれ「向いている」に変えられるかもしれない。
本当の意味での「向いている」って何だろう。
私は「向いている」という言葉自体、不安定なもののように感じている。