【ある夜のこと】負けるわけにはいかない

それなりのプライドを持って生きてきた。

だからこそ最後も、自分なりのプライドを保ちたかった。

これが私なりの意地。これでよかったんだ。

 

私は大企業に就職した。

それは私にとって、いろんな意味で人生の分岐点になった出来事。

 

私が就職活動をしていた時はまさに「就職氷河期」と呼ばれていた時期で、面接を何度受けても私に内定の通知が来ることはなかった。

私は自分のことを「何の取り柄もない人間」だと思っていたから、さらに日に日に自信を失っていた。

そんなときに突然届いた内定通知。私は思わず飛びついてしまった。

 

私はとにかく必死に働いた。

目の前にある仕事と向き合い、悩み、考えて、喜んだり、悲しんだりした。

誰よりも努力をして、評価してもらえるはずだと自分に自信を持てるようにもなっていた。

 

30歳の節目を迎えた今、私の目の前に立ちはだかったのは「女性」の壁。

 

同じだけ働いても、同じだけの結果を出しても、評価されるのは男性。

そんなことはもうないだろうと思っていたのに、今の時代でもそんなバカげたことは起きる。

見て見ぬふりも出来る。「仕方ない」と次のチャンスを待つことも出来る。

でも、本当にそれでいいのか。

 

自分の想い。費やした時間。

これまでの自分を振り返ると、あまりにもひどい仕打ちとしか思えない。

評価されるべきことをやったのに、更新される労働契約書に書かれた賃金の額はあからさまに減っている。

一方で、私を批判ばかりして、何もしてこなかったあの男は今回大きく昇格すると聞いた。

あれだけ批判し続けていたはずの私の企画が実現したとき、その企画のプロジェクトマネージャーとして名前を書かれたおかげで。

 

もとは私が考えた企画。

皆分かっているはずなのに、一人残らず全員が知らないふりをする。

「いいだろ。女はどうせ結婚して仕事辞めるんだから」

「仕方ないよ。男にとって出世は一番大事なんだから譲ってあげなよ」

どれだけ時代遅れなんだ。性別はそんなに重要なのか…。

 

おかしいと問いただしても、「あんなに騒ぎ立ててみっともない」と言われる。

「正しい」の基準が分からなくなる。ここにいれば、これが普通となってしまう。

 

こんなところで終わりたくない。

これが普通じゃない世界も、絶対どこかにあるはずだ。

 

女であることが欠点になってはいけない。

逆に女であることに、誇りを持てるような生き方をしたい。

「女らしさ」とか「女なのにすごい」とか、それは褒め言葉でも何でもない。

 

1枚のまっさらな便箋を取り出して、会社への私の意志を書き綴る。

ここが決別のときだ。そして、再スタートのとき。

人格は変化し続けるもの

人格は、「経験」の積み重ねによって形成される。

ここでいう「経験」は、生まれ育った環境や、出会った人々との時間も当然含まれる。

だから人格は、一生定まることなく変化し続けるのである。

 

テレビ番組で、ある一人の少女の話を観た。

その少女は小さい頃から引っ込み思案で、人前で話すことがとても苦手だった。

でも、腹話術と出会い、オーディション番組に自分から「出たい」と両親に懇願。

そのオーディション番組で、彼女は見事優勝し、その後は多くのステージやテレビ番組に出演するようになった。

人形の言葉としてしか言葉を発することが出来なかった彼女が、今では自分の言葉で話すことが出来るようになっている。

これこそ、経験が人格を変化させた一つの事例と言える。

 

私自身、高校時代までは、新しいことに挑戦することがあまり好きではなかった。

失敗することがこわかったし、単純に初めてのことをするときの不安感が嫌いだった。

新しいことをするとき、私はワクワクする気持ちを持てないタイプだった。

しかし大学進学後は、新しいことや初めてのことばかりの毎日だったため、新しいことに挑戦せざるを得なかった。

しかし、そのような毎日を過ごすことで、新しいことにワクワクする自分に変わっていた。

私自身も、経験で人格が変化したことを実感している。

 

当然、良い方ばかりの変化ではない。

良い変化があれば、一方で悪い変化もあるだろう。

でもとにかく、人は絶えず人格を変化させていく生き物だ。

 

自分の人格は、知らず知らずのうちに変化していくことがほとんどだ。

目に見えて変化していることを実感することもあれば、本当に気付かないこともある。

だからこそ、過ごす時間や環境、出会う人々は大切なのである。

 

ふと自分を振り返ったときに、自分の変化に気付くということがある。

でも逆に、立ち止まることを忘れてしまうと、自分の変化でさえ気付くことができない場合もある。

だからこそ私は、「人間は自分のことを自分が一番理解出来ていない」と思っているのだ。

 

自分は正しくて、全うで、まともな人間だと、根拠もなく自分を評価してしまう。

そういった自己評価ほど、危険なものはないと個人的には思う。

自分のことだからこそ、一層、「客観性」を持って見つめ直すべきである。

 

自分を振り返ったとき、自分の思い描くような自分ではなかったとする。

しかし、「人格」は変化するものである。

それはつまり、自分の意識次第で自分を変えることが出来るということだ。

どのような「経験」をしたら自分を変えられるのか、一度立ち止まって考えてみるのも悪くない。

結局、自分を変えられるのは「自分」しかいない。

 

「向いている」って誰が決めるの?

私の小さい頃の夢は、看護師だった。

それは、身近な慕っている人が看護師だったから。

しかし年齢を重ねると、公務員を志すようになっていた。

理由は、単純かもしれないが、「公務員に向いている」とよく言われていたからだ。

 

でも今、私は普通に会社員である。

そして同時に、Webライターを志している。

 

「向いている」って一体何なんだろう。

 

人それぞれ考え方はあるが、「向いている」というのは客観的な言葉だ。

“自分で”向いているかどうかを考えることほど、不確実な判断はない。

なぜなら、人は自分のことを自分で何より理解できていない生き物だから。

自分の思う「向いている」は、一番疑うべきだと個人的には思う。

 

ただ、矛盾したことを言うようだが、自分以外の人が言う「向いている」も正しいとは言えない。

人には、いくつもの顔がある。これは悪いことではなく、当然のことである。

そのいくつもある顔のうち、どの顔を見たかによって「向いている」と思うものは変わってくる。

そう思えば、人に言われた「向いている」は、正しくもあり間違いでもあるのだ。

 

少し複雑な話になってしまったが、結局私が言いたいのは、「向いている」ことはやる前から分かることではないということである。

 

いろいろなことを経験してみる。

いろいろなものを見て、感じてみる。

そういった中で、自分に向いているものは何なのかということが分かってくる。

 

何かをやる前に言われる「向いている」は、鵜呑みにしてはいけない。

だからと言って流すのではなくて、一度やってみることをオススメしたい。

 

向いていると言われたことを、そのまま受け止めるのではなくとりあえずやってみる。

その時、自分が向いていると思うかどうかというよりも、やった上でもう一度自分以外の人に自分がむいているかどうかを聞いてみるのがいい。

そこで「向いている」と言われるのなら、本当に向いているのかもしれない。

 

ただ、一つだけ忘れないでほしいことがある。

それは、「向いている」と「好き」は違うということ。

誰にでも、必ず「向いている」ことはあるが、それが自分の「好き」なこととは違うということは往々にしてある。

自分に本当に向いていることでも、自分がそれを好きになれないならやるべきではない。

どんなに向いていても、どんなにその分野で何かを成し遂げても、自分の気持ちは満たされないから。

 

でも、逆はあっていい。

つまり、向いているとは言えなくても、好きだと思うものはやるべきである。

 

やりたいことがないという人は、「向いている」と言われたことを全てやってみるといい。

本当に向いていることや、自分が楽しいと思えることに出会えるかもしれない。

一方で、自分が「好き」なことや「やりたい」ことがある人は、もし向いていない場合でもやり続けるべきだ。

「向いていない」は、いずれ「向いている」に変えられるかもしれない。

 

本当の意味での「向いている」って何だろう。

私は「向いている」という言葉自体、不安定なもののように感じている。

【ある朝のこと】変化がもたらすもの

大きく息を吸って、ゆっくり息を吐く。
部屋の中いっぱいに、コーヒーの香りが漂っている。
外からは学校に向かう子供たちのはしゃぐ声がする。

 

--あー、いつも通りの朝だなぁ。
変化のない一日の始まりにほっとする。

 

昨夜から開きっぱなしになっているパソコンの画面。
メールの受信ボックスを見た後、SNSで知り合いの近況を眺めた。

仕事について書かれていたり、家族について書かれていたり、
人が皆、人の生活を知りたがることを滑稽に思いながらも、
自分もまた、同じように人の生活を覗き見ていることが可笑しく思えた。

 

毎日に変化がないことを嫌がる人がいる。
でも、私は変化がない方がずっといいと思う。

だから私は、毎朝コーヒーを飲みながら、メールチェックをして、
いつもSNSで人の生活を眺めながら過ごすのだ。

いつからか、そんな人間になっていた。

 

何となく見ていた画面の中に、突然、「快挙」という言葉がおどる。
そこには、見たことのある名前。

「あっ、ゆうちゃん」

思わず口にしたその名前は、とてつもなく懐かしい感じがした。

 

ゆうちゃんは誰よりも優しくて、人の心に寄り添える人だった。
でもその分、とても臆病で、おとなしい人でもあった。
よくいじめられていたし、「もっとしっかりしろ」とよく言われていた。

でもそんなゆうちゃんを、私はどこか憎めないと思っていた。
確かに頼りなかったし、気が利く方でもなかったけど、なぜか憎めない。

そんなゆうちゃんが、快挙を成し遂げたというニュース。
ゆうちゃんと「快挙」という言葉が、すぐには結び付かなかった。

 

「僕は変化のある毎日を過ごしたい」

ゆうちゃんが、昔、私にそう言ってくれたことを思い出した。
よりにもよって、ゆうちゃんからそんな言葉を聞くとは思わなかった。

「変化のある毎日なんて、ゆうちゃんには似合わないよ」

気付いたら、そんな言葉を私は言っていた。
あの時、何であんなことを言ってしまったのだろう…。
無意識に、ゆうちゃんのことを見下していたのかもしれない。

 

画面の中のゆうちゃんは、私の知っているゆうちゃんではなかった。
強い意志が感じられる、とてもまっすぐな目をしている。

でも、ゆうちゃんの話している言葉や、周りからの評価の声から分かったのは、
昔と全く変わらない、優しくて、人の心に寄り添える人のままだということだった。

 

変化を嫌っていた私の前に、突然現れた変化。
でも、どこかでその変化は心地よくて、私の心は温かくなっている。

 

平日の朝に、初めてカーテンを開けた。
いつもの毎日とは、ほんのちょっと違う朝だ。

変化がある毎日も悪くはないのかもしれない。
窓越しに太陽の光をいっぱい浴びて、思いっきり深呼吸する。

 

今日はどんな一日になるだろう。

初めての感覚に、私は久しぶりに“ワクワク”していた。

私が考える「作家」と「ライター」の違い

あなたの好きな作家は誰ですか?

私は、どちらも小説家だが、唯川恵さんと東野圭吾さんだ。

 

では、好きなライターは誰ですか?

ライティングの仕事や、ライティング関連の趣味などがある人にとっては、簡単な質問である。

ただ、そういったことに興味がない人達にとっては、好きな作家は?という質問に比べるととてつもなく難しい質問になる。

なぜなら、ライターの場合は、「誰が」というよりも「どのような内容か」を重視する人が多いからだ。

 

つまり、「作家」は作家自身が全面に出るが、「ライター」は自分の存在を主張しない。

それが私の目線で見た、「作家」と「ライター」の違いである。

 

 

仕事の関係で、一度、プロのライターさんの取材に同行したことがある。

私にとっての興味は、取材対象以上にライターさんの方だったため、ライターさんの言動を目で追いかけ続けた。

 

しかし、いざ取材が始めると、自分の中での自分の変化に気付いた。

私にとって興味の中心となっていたはずのライターさんよりも、取材対象に魅かれていた。

それはもちろん、取材対象者の人間性や人となりが素晴らしかったというのも理由の一つだが、もう一つ理由がある。

それは、ライターさんの取材対象者を引き立てる力が素晴らしかったからだ。

 

そう気づいたとき、私はますますライターという仕事に魅了されていた。

 

 

オリジナリティのある視点や、自分の独特な切り口で言葉を綴るという点では、ライターも作家も同じかもしれない。

 

ただライターは、そういった自分の色を強調するというより、正確で的確な情報を伝える方に重きがある。

事実を伝えるためには、文章力も当然必要ながら、情報や取材対象を引き立てる力も重要になる。

 

 

私はライターになりたいと明言している。

しかし、ライターと作家の仕事を先に述べたようなに定義してしまうと、自分のやりたいことを「ライター」と限定することが難しくなる。

 

記事を書く上で、私は自分が主役である必要はない。

記事を読んだ人にとって、ちょっとした新しい発見ができたり、ふと考えさせられたり、自分を振り返るきっかけになったりする。

そんな記事を書きたいと常々思っている。

 

ただ同時に、私は頭の中で、いろいろな人生を思い描くのが好きだ。

それは「自分」としてではなく、自分とは違う「誰か」の人生である。

そういった様々な色の人生を「物語」として表現したいという思いもある。

そう考えると、ライターとはまた違うのかとも思う。

 

「作家」と「ライター」を定義することは出来る。

ただ、両者を全く別物として考えるのは、なかなか難しいようにも感じる。

両者の違いを理解することについては、私にとって一生の課題となりそうだ。

質問することが成長につながる

「どうして空は青いの?」

子どもが聞いてくる質問として最もよく聞く質問だろう。

 

大人にとっては当たり前のことでも、子供は無邪気に「なぜ?」と聞いてくる。

その子供のまっすぐな質問に、ドギマギした経験を持つ人も多いはずである。

でも、この「分からないことを素直に聞く」ということが出来るかどうかは、とても大切なこと。

私がそのことに気付いたのは、大人になってからだった。

 

 

子供のとき、大人に好かれるタイプの子は、いわゆる「いい子」タイプだということに気付いた。

 

私は、自分で言うのもなんだが、子供のころはいわゆる「いい子」タイプだった。

まじめで、先生の言う通りに動き、親が期待していそうな言動を先読みしながら動く。

だからこそ、ある程度の年齢からは、親にも先生にも怒られた記憶がほとんどない。

怒られないようにするためにはどうしたらいいか、自分に期待されていることは何かといったことを常に考えていた。

 

そんな子供時代を送ったことで、私に身についた習慣というか、癖というか、ある種の私らしさが作られた。

そんな自分に自分で気付いたのは、大人になってからである。

  1. 分からないことを「わからない」と言えない分、とことん自分で調べる
  2. 周りが自分に何を求めているのかを考えすぎて、下手に意見を言えない
  3. 周りが自分に求めることを中心に考えていたので、気付いたら「自分がやりたいこと」が分からなくなっていた

プラスと言える部分が、ほぼないということがわかる。

小さい頃に私に身についたのは、「人前では知ったかぶりして、その分、影で努力する」という習慣だった。

 

しかし働きだすと、分からないことは自力で調べたりするだけでは解決せず、どうしても身近な人に質問しないと分からないことはあるということに気付く。

私は社会人になってからの方が、人に叱られる回数が増えた。

 

 

今の私は、子供の頃とは考え方が大きく変わった。

「質問すること」、それ自体は悪いことではない。

質問する前後で、自分で考えないことこそが"悪"なんだと気付いた。

 

何か分からないことがあれば、自分で考え、調べてみる。

それでも分からなければ、きちんと分かる人に質問する。

答えが分かったら、もう一度自分で考えて、自分で"きちんと"理解する。

 

単純なことで、人によっては当たり前の事かもしれないが、この一連の流れが大切。

 

 

子供には、質問の前後で「考える」ということが難しい。

でも、そういう習慣を大人が教えることは出来る。

「少しは自分で考えなさい」とか「そんなの知らないよ」とか、そういうことばを言うのではない。

 

「なぜ空は青いのか」

そう質問されたら、あなたはどう答えるか。

本当に科学的な視点で説明するのか、それとも適当に言葉を取り繕うのか。

 

私だったら、「答えない」ということを選ぶ。

「答えない」とはどういうことか。

質問をされたら、まず子供の見解を聞いてみる。

その見解に対して、逆に私から質問する。

それから、「私には答えが分からないけど、私も知りたいから答えがわかったら教えてほしいな」と言う。

子供にとっては酷かもしれないが、このやりとりの後で子供はまた考えて調べたりする。

その中で、子供は自分なりの答えを見つけ出すことが出来るかもしれない。

自分で考えたり、調べたりすることが不得意な子には、「一緒に考えてみよっか」と言って、一緒に調べてあげればいい。

 

 

質問は、きちんと物事を考えているからこそ出てくるもの。

何一つ恥じる要素はない。

それを自分の中だけで留めたり、自分だけで解決しようとすると視野は狭くなる。

 

質問を受ける側も、質問にただ答えるだけではなく、相手のことをきちんと考えて答えてあげるべきだ。

それが子供相手ならなおさら。

 

質問は可能性を広げる。

その可能性を踏みにじってはいけない。

「言葉」は人の数だけ意味がある

切ない―。

よく使う言葉だけど、文字で見たときにふと不思議に思った。

「何で『切』って漢字が使われてるんだろう」

 

そもそも『切』っていう漢字から連想するイメージと「切ない」の言葉は、どこか結び付かない気もした。

それに『切』という漢字が使われる他の言葉とも結びつかない。

それとも、何か知らない要素があるのかと思うと途端に調べてみたくなった。

 

 

「切ない」という言葉の意味を調べてみると、大きく3つの意味がある。

1.悲しさや恋しさで、胸がしめつけられるようである。やりきれない。やるせない。

2.からだが苦しい。

3.身動きがとれない。どうしようもない。

 意外と知らない意味もあるようだ。

ただ現代で使われているのは、1.の意味の場合がほとんどである。

dictionary.goo.ne.jp

 

では、もともとの疑問のヒントを得るために『切』という言葉も調べてみる。

この一文字に込められた意味は、9つもあった。

1.きる。たちきる。きりさく。

2.こする。みがく。きしる。

3.せまる。さしせまる。

4.ぴったりあう。

5.しきりに。ひたすら。

6.ねんごろ。ていねい。

7.すべて。一様に。

8.きれ。断片。

9.きり。くぎり。終わり。

とても面白いと思った。

「きる、たちきる」といった意味がある一方で、「ぴったりあう」という意味もある。

漢字は本当に不思議で面白い。

切 | 漢字一字 | 漢字ペディア

 

 

ここまで調べてみると、「切ない」という言葉の意味を正しく知る以上に、自分なりの解釈をしてみたくなった。

 

「切ない」という言葉。

正確には「切なし」という言葉が転じた言葉ではあるが、『切』という漢字が使われていることには変わりない。

よく聞く解釈としては、「身を切るほどつらい、苦しい」といったもの。

私としては、本来の「せつな・い」という捉え方ではなく、「せつ・ない」と捉えてみたい。

そこから私が生み出す解釈は、「切ない」=「ぴったりあう・(ことが)ない」というもの。

自分以外の人や空気感、日常に溢れる景色や色や音や匂いが、どことなく自分の気持ちとぴったりあわない。

あなたはふと、自分や自分の周りの環境を俯瞰してしまうことがないだろうか。

そうした時、何となく、なぜかは分からないけど「切ない」と感じるときがある。

そんな時は、自分と自分以外のあらゆるものとの間にどこかズレがある場合が多い気がする。

切ないというのは、自分と自分以外のものがぴったり合うことがない、孤独な要素があると感じる。

 

 

漢字一文字でも、様々な意味を持っている。

その意味を、辞書や一般的な定義で知り、覚えることは当然大切である。

 

ただ少しその言葉と意味を眺めてみて、自分なりの新たな目線で解釈をしてみると面白い。

一つの言葉が人によってそれぞれ解釈されるので、その言葉の幅が広がっていくように感じる。

 

「切ない」。

あなたはどのように解釈しますか?